森浦湾に真珠を求めて―三幸漁業生産組合
主任研究員 田中 嘉治
会社の概要
代表者 | 三軒 一高 |
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事務所所在地 | 和歌山県東牟婁郡太地町太地 3172 |
設立 | 昭和40年 |
出資金 | 2,600,000円 |
組合員 | 26名 |
業務内容 | 真珠養殖、貝類種苗生産、ヒオウギ養殖 |
電話 | 0735−59−2206 |
ファックス | 0735−59−2034 |
はじめに
今回県内企業の欄で紹介します三幸漁業生産組合は、本県東牟婁郡太地町の森浦湾で真珠養殖を営んでいる経営体です。経営組織である「漁業生産組合」は水産業協同組合法に基づいて、漁民が漁業等を営む場合に認可される法人です。漁業経営体の中には、個人営業、会社組織等多様な経営体がありますが、漁業生産組合は漁業特有の法人です。
現在この漁業生産組合の組合員は26名です。主な業務は真珠養殖業です。設立は、現在、組合長である三軒一高さんのお父さんが中心になって設立されました。
三軒一高さんは日本大学商学部卒業で、学生時代空手の副将を務めた空手の名手です。現在は8段で地域の空手指導者の顔も持っています。昭和45年に卒業後直ぐにこの組合に加入し、直ちに真珠養殖技術の習得をするとともにお父さんを助けて昭和50年から経営に従事しました。漁業関係者としては異色の履歴と言えます。
![]() 三軒 一高 氏 |
「三幸漁業生産組合」は、本県では現在唯一の真珠養殖業を行っている経営体です。かっては、真珠養殖以外に、ネックレスや指輪などの真珠加工も営んでいました。この真珠加工は直販すると非常に利益が大きいものですが、流行の激しさ、そのために材料の不良在庫等が問題となり、最近はその規模を縮小しています。それに代わって、アコヤ貝の種苗生産・ヒオウギ貝の養殖を手がけています。
この県内企業紹介では、漁業関係、真珠養殖業を紹介することは初めてであり、またとない機会ですので、「海」と「生き物」と言う自然を相手にした養殖経営を行うのに現在までどのような苦労と困難が有るのかも含めて紹介したいと思います。また、現在、この経営状況は決してよくありません。しかし、そのような状況の企業を紹介し、自然と格闘している姿を紹介することは、意味があると思います。
真珠養殖業は、勿論、真珠を生産する事業ですが、漁業自体が特異な分野です。その中にあって、さらに特異な存在です。まず、この真珠養殖技術が有名な「御木本幸吉」により発明されたことです。その技術の根幹である「核入れ」手術は、誰でもができる技術では有りませんでした。また、戦前から戦後高度成長期を迎えるまでの間、真珠は我が国の主要な輸出品でした。そのため、西洋諸国で評判を落とさないために品質保持の特異な法律体系がありました。最後は、真珠養殖はハマチやノリ養殖と異なって、食用の養殖でないことです。人が生きていく上で、どうしても必要な品物では有りません。欧米諸国へのネックレスや指輪となり、装飾品としての価値があります。そのために、どうしても、その時々の景気の状態や流行廃りなどに大きく左右されることになります。
真珠が出来るまで
まず最初に真珠が出来るまでをごく簡単に紹介します。使う貝は他にも有りますが、いわゆる真珠貝と言われるアコヤ貝が中心です。二枚貝の一種で、イメージ的には帆立貝やヒオウギ貝によく似ていて、アワビやサザエとは全く外見は異なります。
そのアコヤ貝に、真珠の形のもとになる「核」を生殖腺に挿入します。貝の大きさから見ると異常な大きさです。その結果、アコヤ貝は異物を体内に持つことになります。この核を挿入するアコヤ貝を「母貝」と言います。アコヤ貝が生を受けてから約3年ほどの貝を使います。
![]() 核の挿入 |
しかし、この核を入れただけでは、あの綺麗な真珠は出来ません。「ピース」と言う真珠貝の外套膜を1ミリ四方位に切ってその核に貼り付けます。そのピースは、核を挿入する真珠貝とは違う個体から取ります。そのための貝を「ピース貝」と言います。核とこのピースは貝には相当なストレスがかかります。核とピースはいずれもアコヤ貝から見ると異物になるからです。
その核を入れる前段階の作業を「仕立て作業」と言いますが、それはおおむね6ヶ月前、或いは1ヶ月前から始まります。ある時は生殖腺の発達を抑制し、ある時は卵を抜いたりする必要があるためです。この仕立作業をどのようにして、いつから始めるかは、収穫の時期や核挿入の能力等を決定することになり、経営戦略上、重要な技術になります。
このようにして、核を入れた真珠貝は、約1年ほどの間、海で養殖されます。管理は貝掃除等を行い、健康に育つ様に注意深く行われますが、「浜揚げ」するまでは結果は分かりません。良い結果をただひたすらに待つことになります。
![]() 真珠のネックレス |
県内産真珠
和歌山県の真珠養殖は昭和30年代には県内の湾でも広く行われていました。波が余り立たない平穏度を保てる海域、この太地の森浦湾、那智勝浦の浦神湾、瀬戸内海の海域でも行われていました。しかし、本県の真珠は養殖環境等から品質に問題があり、良質の真珠をつくるには、仕上げの段階で、化粧巻き、といいますが、のために県外に一定期間、漁場を求める必要がありました。和歌山県の真珠養殖業者は全国に比較してハンディを背負うことになりました。
全国的な生産過剰、過密養殖等品質等に問題が出て来て、ほとんどの県内業者は廃業に追い込まれました。そして残った森浦湾での真珠養殖業者にはさらに過酷な試練が待っていました。
普通の工業製品や商品と大きく異なるのは、仕込をしてから売るまでの期間が非常に長いことです。核入れを行ってから、浜揚げまでの間は短くなったとは言っても、大よそ1年から2年かかります。さらにこれをアコヤ貝が生命を受けた時から見ますと更に3年間が掛かっています。経営者は、これと言うアコヤ貝を見つけて、真珠にするのに約4年から5年を必要とします。
その間、大半は自然の海の環境状態に左右されます。それでは、その海で養殖している間にどのような困難が発生するかをこの森浦湾で見ていきます。
![]() 養殖漁場 |
赤潮そして濁水
瀬戸内海などとは異なって、熊野灘のように直接太平洋という外海に面している海域では赤潮は発生しても、決して大規模にならないで、漁業被害はほとんど無いのが今までの経験でした。
しかし、昭和59年6月上旬から8月上旬にかけて熊野灘全域で赤潮が発生しました。原因となるプランクトンは毒性が強く、7月中旬から下旬にかけて、非常に濃厚になりました。この熊野灘海域を襲った赤潮は串本浅海漁場のマダイやハマチの魚類養殖だけでなくこの森浦湾の真珠養殖もほとんどが全滅の結果となりました。その海域全体で約28億円の漁業被害が出ました。
このような経営上の危機の時に、ほとんど物的担保がない漁業の世界で、人的担保を最大限見積もった「系統融資がなければ、再起不能であっただろう。」と組合長は今も感謝しています。
この赤潮の直後にさらに追い討ちがありました。昭和61年に発生した大規模建設の工事中に、その濁水が森浦湾の漁場に大量に流入し、養殖中の真珠がへい死しました。赤潮から漸く再開を始めた真珠養殖は再び壊滅の状況となりました。赤潮による全滅から未だ収穫らしい収穫がないときにです。この濁水による被害は原因者がはっきりしていましたが、その原因をめぐって、当時の環境庁の中央公害等調停委員会に提訴し、その解決には数年を要しました。「時には不必要な争いもしなければならなかった。」と組合長は無念そうに言います。
新しい技術を求めて
このように、幾つかの危機に直面しながらも、その生産する品質に関して、努力が重ねられました。太地の森浦湾で生産される真珠をはじめとして、和歌山県の真珠は「もともとは黄色や菜っ葉色で、売り難い真珠」の評価を受けていました。これは和歌山の海域環境のためと仕方が無いことと諦めていたのです。
その開発の方向は今までの常識に挑戦することでした。ピースに用いる貝は、核を挿入する真珠貝と同じ母集団から選ばれていました。異なる組織を入れるには、最も近い品種の物がよいと言う常識がこの業界にはあったのです。それへの挑戦です。
挑戦が始まったのはお父さんのときで、今から約25年程前のことです。
それぞれのアコヤ貝を従来のように天然の貝に依存するのではなく、人工的に作ることにより、安定した高品質の真珠を作れないか。さらに、ピースに使う「細胞貝」と核を入れ真珠を巻かせる「母貝」とは異なった貝でも良いのではないか。そのマッチングを旨くすることでより高品質な真珠を創ることが出来ないかと考えたのです。そうすれば、この森浦湾でも高品質の真珠を作ることが可能と考えたのです。
そのために、細胞貝と母貝の二つの方向から攻めます。そうすることにより、この森浦湾でも色が良くなるとの信念です。
そのために、お父さんが取った手法はある意味では冒険でした。それを実現するにはアコヤ貝の品種改良が必要です。そのためには、人為的な掛け合わせ、採苗、飼育が必要になります。しかし当時、真珠貝の人工種苗生産は技術的に確立されていませんでした。アコヤ貝は天然採苗に依存していました。
採苗技術を用いて、まず、手がけたのは「白く巻く要素をもつ細胞貝」を作ることでした。これは、色の組み合わせですから、さまざまな色を持つ貝を収集することから始めます。それをベースにして、掛け合わせて、組み立てていきます。
次は、母貝です。これも、いろんな場所で探しました。そして、結論としては、「ベースになる固い殻で巻く貝は地元の貝が一番よい」と言うことでした。そのベースになる貝に色々と掛け合わせを行います。地元森浦で強い貝を見つけ、その貝をもとにして掛け合わせることでした。
![]() アコヤ貝採苗風景 |
初めてのブランド化されたアコヤ貝が完成
しかし、この研究の成果は直ぐに出ません。もっとも基礎となる種苗生産技術が未完成です。そこへ掛け合わせを行おうというのですから当然です。さらに、長期性が出てきます。実際にその交雑したアコヤ貝を使って真珠をつくって、その結果を評価して、違う掛け合わせを考えるというプロセスが何回も、何年も必要であるからです。「初めてのブランド化されたアコヤ貝」、4代目の意味を込めて「F4」と言っていますが、が誕生したのは、残念ながらお父さんが亡くなってからのことです。お父さんの執念を現在の組合長が引き継いだ大きな成果でした。組合長は言います。「やっと何とか売れる真珠、採算に乗る真珠に近づいたこの喜びを、父に直接見せてやれなかったのが残念です。」
このアコヤ貝の誕生により、徐々に品質も安定し、高品質な真珠が出来てきました。その評価は徐々に高まっていきました。そして、平成9年度(平成10年1月)の愛媛県の真珠組合の入札会では、出品されたほかの業者を差し置いて、トップになり、この業界に「三幸真珠あり」との評価を受けました。
従業員もその間徐々に増えて、総数61名になりました。この時期がこの生産組合の最も晴れやかな時代と言えます。
赤変化症
しかし、全国の真珠業界では、恐ろしい事態が進行していました。この生産組合では、前述のとおり人工種苗を使用していたために、顕在化するのは遅れたのですが、全国の真珠生産地では平成7から8年頃からウイルス性の病気「赤変化症」が蔓延していたのです。水温が高くなる夏場に、貝柱が痩せてきて、赤くなることからその様に言われています。死滅しないまでも、真珠層をきちんと巻くことが出来る健康なアコヤ貝の点からは致命的な欠陥となります。このウイルスが遂に森浦にまで到達し、蔓延し始めました。それは平成10年の夏のことでした。この病気は、本来日本には無かったとされており、その対策も全国で遅れてしまいました。日本全国の夏高水温になる海域では今も、その影響が出ていて、真珠養殖の存亡に関わる事態となっています。
その結果、数億の水揚げが有った真珠は、数千万円にまで落ち込んでしまいました。このウイルス対策は、今までの赤潮や濁水の被害とは性質が異なります。これらは被害額は非常に大きいにしても一過性の被害です。しかし、このウイルス性の病気は、その海域に必ずウイルス菌が残っています。ですから、そのウイルスに負けない、夏場に強いアコヤ貝に置き換えていくことが必要となります。前回の目標であった「品質の良い真珠」のための開発が今回は「赤変化ウイルスに強いアコヤ貝」を目標にしなければなりません。
今、このために行われている方法が「ハーフ貝」の産出です。これは、このウイルスに強い貝と日本本来の貝とを掛け合わせることです。暖かい海域では、従来の天然種苗に依存することが出来なくなりました。ウイルスに強い貝は、一般的に中国産の「アコヤ貝」であるといわれています。他にも、そのような貝を求めて、世界中の高水温でも生息している「アコヤ貝」で試みられています。確かに中国のアコヤ貝とのハーフ貝はこのウイルスに強いのは確かです。
ところが、真珠養殖の技術から言いますと、今までの核入れ等の技術をそのとおり行ったのでは旨くいかないのです。真珠に核を挿入する前に、約6ヶ月前から、「仕立て作業」を行うと言いましたが、この仕立て作業を組み立て直す必要があります。また、その核を挿入する場所も微妙に従来と異なります。ですから、確かにハーフ貝は赤変化症には強くて良いのですが、一から自らの技術をそのハーフ貝に合わせることが必要になります。
組合長の再度の挑戦が始まりました。従来の品質を保持しながら、このウイルスに強いアコヤ貝を作出する挑戦です。漸く平成13年3月にこの条件に合うアコヤ貝をつくる事が出来ました。そして平成15年に核入れをそのアコヤ貝で行いました。後は本格的な出荷が可能になる平成17年を待つことになります。
真珠養殖以外に、種苗生産、ヒオウギ養殖を行っています。これらに簡単に触れます。
種苗生産
アコヤ貝の種苗生産を企業化したのはこの三幸漁業生産組合が最初です。貝類の種苗生産に取り組み始めたのは、昭和47年からです。その当時は民間での企業ペースでのアコヤ貝の種苗生産は行われていませんでした。ただ、和歌山県の水産試験場で、昭和45年頃にアコヤ貝に良く似た「ヒオウギ貝」の種苗生産技術が確立されていました。当時の組合長は「ヒオウギ貝」で出来るならアコヤ貝で出来ないはずが無いとの信念でした。アコヤ貝では三重県の水産試験場で漸く試験的に行われ始めていました。アコヤ貝で、主産地で無い、小さな真珠養殖業者が行うことは無謀・冒険と言われました。
![]() 餌料生物の生体保存 |
その種苗生産を支えている現在の技術者は池田ご夫妻です。もう既に、還暦を終えられています。ご主人はマグロ延縄漁船の通信士から転向されて、畑違いの種苗生産の責任者としてその職務を遂行されています。実はこの生産組合の技術を支えているのはこのような技術者です。水産の専門教育を受けてきた人は、組合長もそうですが、誰も居ません。「刻々と変わる海、貝を観察して、対処する。」現場ではその技術が必要なことだと実感しました。
種苗生産としては、自らが使用する真珠母貝及びピースとして使用される「細胞貝」の生産、他の真珠養殖業者からの受託するアコヤ貝の種苗生産及びヒオウギの種苗生産です。約年間5千万円位の生産額です。
母貝の生産物を売ることはしていません。その性状が外部に漏れることを恐れるからでは無くて、「この森浦で成績が良くても、他の海域では不明である。開発してきた経過から言っても、その海域海域で最も適したアコヤ貝があるはずである。」と言う信念に基づいています。このことは、通常企業秘密である種苗生産現場においても取材や見学に何ら制限を設けていないことでも明らかです。
ヒオウギ
ヒオウギは、その貝の色が赤色、黄色、紫色など食用以外にもその貝の美しさで注目を集めている貝です。前に少し触れましたが、最初は、アコヤ貝種苗生産の訓練の一環として生産されたようです。三幸漁業生産組合ではその様な色貝生産にベースをおくのではなく、もっぱら、食用としての生産を行っていて、勝浦や白浜のホテル、旅館に毎日供給しています。ですから、本県にお見えになった観光客の方々が食用にするヒオウギは相当な部分がここの生産によっています。県内のヒオウギ生産量は最大の生産量です。年間3千万円くらいの生産額です。
![]() ヒオウギ貝の選別 |
明日に向けて
残念ながら、現在三幸漁業生産組合は試練の真っ最中です。一歩も二歩も下がった状況にあります。幾つかの危機を乗り越えてきたこの三幸漁業生産組合のこれからの展望は「このような田舎には、新たな企業誘致だけではなくて、その気候風土に合った産業が必要である。」「これからも、乗り越えなければならない危機はいくつも訪れるだろう。しかしそれに負けないで頑張っていきたい。」「少なくとも、数年前の60名の組合員にレベルになれば、この小さい町で、重要な雇用の機会になる。」
私は組合長のこの言葉が単なる強がりでもなんでもない。そこには、日本で初めてといえる「ブランド化されたアコヤ貝」を作出した技術力と粘り強い意気込みで、必ず達成できる、そのために、ここしばらくの間は、平穏な海であって欲しいと実感してこの紹介を終えたいと思います。
(2003.8)
(執筆者の所属、役職等は発表当時のものです)